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杵 屋 佐 吉

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プロフィール
四 世 佐 吉

Sakichi_4th
四世 杵屋佐吉
Sakichi Kineya IV
三味線方
明治17年(1884)~昭和20年(1945)
本名・武藤良二
 三世佐吉の三女、初世佐喜の子として、東京浅草に生まれる。明治27年(1894)3月、三世佐吉の門弟、佐喜次につき、長唄修業を始める。明治28年(1895)、二世寶山左衛門の厚意により、本名良二の名で新富座へ見習い出勤。
 明治32年(1899)浅吉と改名。明治37年(1904)7月、21歳でタテ三味線昇進。同年、四世杵屋佐吉を襲名し、新富座・明治座・春木座の囃子頭を経て明治座の邦楽部長、松竹の音楽部長となる。明治41年(1908)、蜂須賀藩士中山賢正明三女ますと結婚。夫人は唄方杵屋増子として公私共に生涯佐吉の良きパートナーであった。

 四世佐吉はその生涯を通じ、創作活動に、楽器の改良に、長唄会の発展に、たえず新風を吹き込み、箏の宮城道雄と並んで近代邦楽史上に数々の功績を残した人である。
 作曲では、これまで三味線が唄の伴奏のみで、独立演奏させる曲のないことに疑問を持ち、大正8年(1919)、三絃主奏楽として唄のない三味線だけの合奏曲「隅田川四季」を発表した。そのほか、従来の長唄の歌詞のように遊里に走らず、一般子女にも安心して習わせ歌わせることのできるような小曲集「芙蓉曲」や「童謡」も多数作曲している。

 また、大正12年(1923)にフランス大使として日本に来ていた詩人P.クローデルの詩の印象を歌詞として三味線で表現した「女と影」、その他、新舞踊曲や歌舞伎舞踊曲も含め、それまでの常識をうち破った新しい様式の作品を世に送りだした。新作発表の場として「芙蓉会」を設立。大正元年から晩年まで、百数十回を数えたこの演奏会は、研精会と並んで当時の長唄界を二分していた。

 大正11年(1922)、低音三味線(セロ三味線)、同13年(1923)末にはその大形のコントラバスとも言える大三味線(豪絃)を考案し、昭和6年(1931)には元逓信省技師石田一治作製による電気三味線(咸絃)を演奏。また、三絃と洋楽との合奏やコンチェルト形式の演奏も試みている。

 大正15年から昭和元年(1926)にかけて、文部省嘱託としてヨーロッパ各国に於ける音楽作曲に関する視察、調査、研究並びに三絃音楽の紹介発表を依嘱され、増子夫人と共に渡欧。ロンドンではF.クライスラーのヴァイオリン演奏会に感激し、コンノート殿下総裁による「ジャパンソサエティ」(年に一度、英国の有名な人達が集まって在留日本人向けに行う夜会)では、夫人と共に長唄を演奏し好評を博した。パリでもフランス領事館やバロン薩摩(芸術家の後援をしたことで有名な貴族、薩摩治郎八)主催の特別演奏会で演奏。M.ラヴェルとの交歓演奏をする等、国際的にも活躍している。

 最後にもう一つ、四世佐吉が成した大きな仕事は、とくに第二次大戦中、歌舞音曲は非国民のやることと言われた時代にあって、長唄協会の会長として(昭和13年[1938]から晩年まで)、長唄を日本の音楽として守り抜き、次代に伝えたことであり、これは佐吉家の誇りとするところである。
 昭和20年(1945)12月13日歿、享年62歳。